Cha-ble_Vol21
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12和食と「江戸料理」、世界へ。 世界にその名を知られる東京築地市場も、今年の十一月には江東区の豊洲に移転する。始まりは今から約四百年前の日本橋だった。創始者と伝えられる佃島の森孫右衛門は、大坂の佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)からの「移民」で、「江戸っ子」ではない。 天正年間、徳川家康は大坂の住吉大社参詣のための船に難儀していたが、森孫右衛門一統の漁船の助けを受け、豊臣方と相対した冬の陣では住吉大社神主宅を本陣にする。以来孫右衛門は家康の加護を受け、江戸築城の際呼び寄せられ、佃島に住むことを許される。 江戸湾で網を引き、隅田川の河口で揚がった白魚などを家康に献上したが、海からの侵攻を見張るコーストガード(沿岸警備隊)の役目も負っていた。余った魚介を町民に販売したのが、魚河岸の始まりだ。 江戸の海は平ひらめ目や鰈かれい、小こはだ肌、鯵あじなどの魚に海えび老や穴あなご子、蝦しゃこ蛄、青あおやぎ柳や蛤はまぐり、鮑あわびなどの小魚や貝類が生息する海の幸の宝庫だった。 建設ブームに沸く江戸は、大工や左官など男性の数が圧倒的に多かった。町民たちが最も恐れたのは火事を出すことで、家庭での調理は限られている。一日二食の時代、外食が盛んになっていく。江戸湾で獲れた魚介を用い、鰻うなぎに寿司や天ぷらといった立ち食いの屋台や煮売り屋(惣菜店)が流行する。現代の「ファストフード」だ。 しかし一口に江戸時代といっても、二百数十年に及ぶわけで、池波正太郎の﹃鬼平犯科帳﹄には、そば屋や軍しゃも鶏鍋の店は出てきても、寿司屋は出てこない。鰻が、出始めたころである。 だいたい「江戸前」という言葉は鰻を指したといわれる。深川は隅田川の河口デルタで、小さな川や掘割が縦横に巡り、水路として四通八達していた。鰻の格好の生息地で、当初は脂っこいと嫌われたものだが味醂の出現によってたれが工夫され、人気となっていく。 寿司はもともと保存食だったが、粕酢の力を借りてインスタントに発酵熟成させる「握り寿司(早寿司)」が考案され、文政年間に広まった。肉体労働に従事する人たちが、食べるわけだから、当時の握りは今のおむすびくらいの大きさがあり、おやつ感覚で一つか二つをつまむ軽食だったという。 温かいご飯に豆腐の味噌汁と小魚の煮物があれば、贅沢なご馳走だった。野菜は千住方面から隅田川を船で下ってきた。こう見ると、お米を中心に魚介や野菜などのおかずをバランスよく食べる今の和食の原形がみてとれる。世界遺産に指定された和食のルーツは江戸時代に形成されたといえる。 リオデジャネイロから四年後の二〇二〇年には東京オリンピックだ。江戸時代の料理から発達した和食の心ばえと味わいを、ぜひ世界中の人たちに理解し、体験してもらいたいものだ。しげかね・あつゆき1939年東京生まれ。文芸ジャーナリスト。朝日新聞社社友。前常磐大学教授。「楽しい食卓を囲める人は、すべて食通」を持論とする。食についてのエッセイを各誌に執筆。天の恵みである食材への感謝とそれを生産、調理する人への敬意を尊重する視点は、料理人からも広く支持されている。「日本文藝家協会」、「日本ペンクラブ」、「食生活ジャーナリストの会」各会員。著書多数。昨年刊行された『食彩の文学事典』(講談社)と『ほろ酔い文学事典』(朝日新書)が評判を呼んだ。

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