Cha-ble_Vol32
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12機内食新型コロナウイルス騒動はまだ終息したわけではない。それが証拠に新顔が登場してきた。しかし「当たり前の日常」が少しずつだが、元に戻ってきた気がする。この緊急事態のさなか利益を上昇させた業種もあるが、航空会社は致命的な打撃を受けた。乗客は減っても、機体整備のために試験飛行を適度にしなくてはならない。どうせ飛行するのだからと自国の上空を飛び、機内で食事をして同じ空港に戻るツアーを企画したら大勢の応募があった。台湾のお話だ。日本でも機内食の通信販売が人気で、外国旅行の気分を少しでも味わいたいというささやかな願いだ。日本人が自由に外国を旅行できるようになってからほぼ半世紀が経つ。当初、機内食は憧れの食事だった。そのうち長時間狭い座席にすわったまま、あまり代わり映えせず、駅弁をばらしたような料理に飽きてきた。作家の阿川弘之(阿川佐和子さんの父上)は、食べることに一家言ある人だったが、飛行機で海外旅行に出かけるときは自家製の弁当を持参した。炊き立ての白いご飯に梅干し、松の葉昆布と胡麻塩をまぶし、家で牛肉を甘辛く煮て、玉子焼き、キヌサヤ、ホウレンソウのお浸しを添える。機内ではビールとお燗した日本酒を頼むだけ。当初は不審な顔をしていた客室乗務員も、中身をのぞいて、羨ましそうな表情を浮かべるのを見るのが楽しかったという。宗教上の理由やベジタリアンなど機内食に用いる食材にはさまざまな難しい制約がある。機内の調理技術も進歩し、ビジネスクラスともなると、三ツ星レストランの有名シェフや老舗料亭の監修をセールスポイントにし、料理に特色を持たせる航空会社も増えてきた。各社のホームページにもメニューを紹介するようになった。画家の安西水丸は大のカレー好きで、外国を旅行していて無性にカレーを食べたくなり、わざわざインド航空を利用したという。確かルフトハンザ航空だったと記憶するが、ギャレー(調理室)に食事専門の女性スタッフがいた。客席には顔を見せず、前菜を丁寧に盛り付け、メイン料理の温度を調節し、一皿一皿に目を配って丁寧に仕上げていた。今や世界的な和食ブームで、日本の弁当も注目されている。「BENTO」で通じるらしい。駅弁の始まりはおにぎりで、機内食の最初もサンドウィッチだった。日本発着の機内食は和風、洋風と二種くらいから選ぶ。最近は外国の乗客も和風を好み、和食から品切れになるそうだ。こんな、どうでもいいことを話題にできるだけでも、「当たり前の日常」が戻ってきたことを証明している。新顔の早い退散を願うばかりだ。しげかね・あつゆき1939年東京生まれ。文芸ジャーナリスト。朝日新聞社社友。元常磐大学教授。「日本文藝家協会」「日本ペンクラブ」会員。著書に『食彩文学事典』(講談社)、『淳ちゃん先生のこと―渡辺淳一と編者者の物語』(左右社)、『落語の行間 日本語の了見』(左右社) など多数。

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