chable37
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うかがいに来ました。創業200年、清酒「菊盛」をはじめ、世界各国で人気の「常陸野ネストビール」やウイスキー造りにも挑戦していますよね。原動力は何ですか?カーが多いのですが、いずれも小規模で、新しいことに挑戦しない企業も少なくありません。今から40年ほど前、私が22歳で父から家業を引き継いだとき、当社は茨城県内にあった約50の蔵の中で下から5番目、社員は3人しかいませんでした。した。とにかく清酒はよく売れましたが、「長くは続かないな」と私は思っていました。そんなとき、※一村一品運動を提唱していた大分県の平松知事(当時)にお会いする機会があって、「このままじゃ日本酒業界はダメになる」と言われました。理由を尋ねたら、「皆が同じことをやっているから」と…。塚田 木内 塚田 木内 今日は木内さんの酒造りに対する想いを地方の長寿企業ランキングには酒類メー地酒がブームになったのはそのころですか?ピークは昭和の終わりから平成の初めで確かに日本中の酒蔵が山田錦といいう仕組みで、似たような日本酒を造っていました。その後、我々は清酒にとらわれず、      3クラフトビール、焼酎、飲食業、ウイスキーと、多様化するマーケットに合わせ新しい事業に取り組みました。変化に対応し続けてきたということですよね。同じことをやっていると、世の中の変化に取り残されます。ただ一つ、「良いものをつくる」というポリ塚田 木内 シーだけは変えずにやってきました。安いものづくりはしない。マーケットはバリューで乗り込むもの、価格で乗り込むものではないと思っています。業績が良いときに戦略を変えるのは勇気がいりますよね。伸びているときにこそ新しいマインドを入れないと企業は育ちません。同じことの繰り返しでは社員のモチベーションも上がりませんから。転機はビールづくりですか?そうですね。初めは小さな醸造設備をカナダから輸入して、おもちゃみたいな工場でした。日曜大工の延長みたいで、楽しかったですよ。(笑)ほどなく海外にも進出されました。アメリカに進出したのは1999年でした。一般に、後発で乗り込む企業は、そのマーケットのクラフトビールの真似をします。苦みや酸味、いわゆるホッピーなビールですね。でも、アメリカにはすでにそういうビールがたくさんある。同じようなものでは対抗できないと思いました。そこで我々は、日本らしいものを造ろうと、徹底して日本の原材料や技術にこだわりました。こうして試行錯誤の末に出来上がったのが、常陸野ネストビールの原型です。それをジャパニーズビールとして売り出しました。「ローカルだからこそ、グローバルに売る」。そんな教えを、我々はまさにアメリカで体験したわけです。酒造りのこだわりは何ですか?茨城産の原材料を使った茨城でしかできない酒造り、そして流はやり行ではないものづくりです。秋田に行けば秋田の料理に合う酒があり、新潟には新潟の…。地元の米を農家から集めて酒を造って地元で売る。余った米ぬかや酒粕は漬物や甘酒に利用する。ものを地域で循環するのが地酒の文化です。酒というのは元々そういうものでした。我々は原点に立ち返っただけなのです。地域に根ざす、ということですね。食品塚田 木内 塚田 木内 塚田 木内 塚田 木内 塚田 スーパーも同じです。主たる商圏は店舗の半径500mくらいのお客さま。地域に根ざした商売です。だからその地域にお住まいのお客さまがどんな料理を好み、それに合わせてどんなお酒を飲むか、そういうことを知ることが大事です。それを無視して同じ商品を並べ、同じ値段をつけているだけの商売では生き残れません。もちろん経済性は大事です。しかし毎日食べるものが体をつくり、命を支える。そういう食を我々は扱っています。「地域密着」はカスミの創業以来の社是ですが、言葉だけではなく、企業のDNAとしてつないでいかなければ生き残れないと思っています。ビアカフェやビアバー、そば店、とんかつ店…、酒造りだけでなく飲食業も手がけていますよね。自社で豚を育て、ソバの栽培まで。いや、それは食がメインというより、あくまで酒を引き立たせるためのビジネスです。食塚田 木内 進化する老舗あるべき姿ポットスチル(蒸留器)が活躍する蒸留工程はウイスキー造りの要、味や香りを決定づける八郷蒸溜所のビジターセンターに並ぶ「日の丸ウイスキー」(※)地域活性化のために特産品を発掘してブランド化するプロジェクト。  1980年ごろから当時大分県知事だった平松守彦さんの提唱で始まり、全国に広まった。とうに酒必米死を。使人い、が品育評たな会いで杜と賞うじ氏を制獲度るとこ

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