昭和百年のごはんパレスチナのガザ地区で続いている戦禍の映像を見ると心が痛む。逃げまどう子どもたちの姿は、昭和二十年五月に東京山の手の大空襲を体験したわが身に重なり、とても他人事とは思えない。昨今は朝起きてから、何も食べずに会社や学校に出かける人が多い。戦時中は食べられるときに食べないと、次の食事の保証はなかった。私は小学校に入る前に読んだ田河水泡の漫画「のらくろ」に出てくる「鯛焼き」がわからなかった。どうして焼いた魚がおやつになるのか。小あき豆も貴重品で、後にあんパンを初めて食べたときの興奮は今でも記憶にある。戦後もしばらくは「ひもじい時代」が続いた。昭和前期は家父長制が確立し、日常の食事は家族そろって母親がつくった料理を黙って食べるのが普通だった。保存食の鰹節や昆布などの乾物で出だし汁を取るのが家庭料理の基盤で、当然手間と時間がかかる。日本の歴史は戦国時代から常に食糧が不足する「飢饉の歴史」だ。戦後もかなり長いあいだ、米は「米穀通帳」による配給制だった。冷凍や養殖などの技術が進歩し、され、社会進出するためには必然だった。日本史上初めて「食を楽しむ」ゆとりが生じたのだ。外食する機会が増え、プロの料理人の味を家庭で再現する傾向が生まれる。テレビでは料理の手順から産地の情報、行列のできる店の紹介など、いわゆるグルメ番組が花盛りだ。「食のエンタメ化」である。こんな国は世界のどこにもない。大食い競争や食べ放題など食べ物への感謝の念が乏しい。過去に遊び心が無かったわけではない。江戸時代から料理の名前を食材の産地に言い換える洒落があった。「走り、旬しん、名残り」と四季の変化を楽しみ、節句や法事など、年中行事に合わせて特別な料理を整えた。和食が世界文化遺産に指定された大きな理由でもある。昨今、米の価格が高騰して大きな政治問題になっている。飢饉の時代を忘れ、飽食の乱痴気騒ぎに溺れたツケが回ってきたのではないか。「令和のコメ騒動」はガザの子どもたちの平安を祈り、天の恵みである食材への感謝の念を思い起こす警鐘と言えるのかもしれない。流通網の発達で世界中から食べ物が日本に入ってくるのは昭和三十年代の高度経済成長に入ってからのことになる。われていく。電気冷蔵庫や電子レンジなどの電化製品が普及し、家庭にあった、すり鉢や鰹節削り器が消え、ブレンダーや粉末の即席出汁が登場する。レトルトといった便利な食品も生まれた。手抜きとかずぼらなどと揶揄されるが、女性が家事から解放核家族化にともない「おふくろの味」が失ずゅ しげかね・あつゆき1939年東京生まれ。文芸ジャーナリスト。朝日新聞社社友。元常磐大学教授。日本文藝家協会、日本ペンクラブ会員。著書に『食彩文学事典』(講談社)『淳ちゃん先生のこと―渡辺淳一と編者者の物語』(左右社)『落語の行間 日本語の了見』(左右社) など多数。12
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